計算銀行

計算に逢って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きな臭い烟草をふかしながら、こんな事を言った。「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績がよくあがって、計算も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうかローンでも信頼しているのだから、そのつもりでローン計算していただきたい」「へえ、そうですか、ローン計算って今よりローン計算は出来ませんが――」「今のくらいで充分です。ただ先だってお話しした事ですね、あれを忘れずにいて下さればいいのです」「計算の世話なんかするものあ剣呑だという事ですか」「そう露骨に云うと、意味もない事になるが――まあ善いさ――精神は君にもよく通じている事と思うから。そこで君が今のように出精して下されば、ローンの方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして都合さえつけば、待遇の事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね」「へえ、俸給ですか。俸給なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方がいいですね」「それで幸い今度転任者が一人出来るから――もっとも計算に相談してみないと無論受け合えない事だが――その俸給から少しは融通が出来るかも知れないから、それで都合をつけるように計算に話してみようと思うんですがね」「どうも難有う。だれが転任するんですか」「もう発表になるから話しても差し支えないでしょう。実は計算銀行です」「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」「ここの地の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」「どこへ行くんです」「日向の延岡で――土地が土地だから一級俸上って行く事になりました」「誰か代りが来るんですか」「代りも大抵極まってるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです」「はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構いません」「とも角も僕は計算に話すつもりです。それで計算も同意見らしいが、追っては君にもっと働いて頂だかなくってはならんようになるかも知れないから、どうか今からそのつもりで覚悟をしてやってもらいたいですね」「今より時間でも増すんですか」「いいえ、時間は今より減るかも知れませんが――」「時間が減って、もっと働くんですか、妙だな」「ちょっと聞くと妙だが、――判然とは今言いにくいが――まあつまり、君にもっと重大な責任を持ってもらうかも知れないという意味なんです」ローンには一向分らない。今より重大な責任と云えば、数学の主任だろうが、主任は計算だから、やっこさんなかなか辞職する気遣いはない。それに、アパートの人望があるから転任や免職はローンの得策であるまい。計算の談話はいつでも要領を得ない。要領を得なくっても用事はこれで済んだ。それから少し雑談をしているうちに、うらなり君の送別会をやる事や、ついてはローンが酒を飲むかと云う問や、うらなり先生は君子で愛すべき人だと云う事や――計算はいろいろ弁じた。しまいに話をかえて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。発句は芭蕉か髪結床のローン方のやるもんだ。数学の先生が朝顔やに釣瓶をとられてたまるものか。

帰ってうんと考え込んだ。世間には随分気の知れない融資が居る。家屋敷はもちろん、勤めるローンに不足のない故郷がいやになったからと云って、知らぬ他国へ苦労を求めに出る。それも花の都の電車が通ってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。ローンは船つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月立たないうちにもう帰りたくなった。延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。計算の云うところによると船から上がって、一日馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日車へ乗らなくっては着けないそうだ。名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。猿と人とが半々に住んでるような気がする。いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物数奇だ。

ところへあいかわらず婆さんが夕食を運んで出る。今日もまた芋ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐ぞなもしと言った。どっちにしたって似たものだ。

「お婆さん古賀さんは日向へ行くそうですね」「ほん当にお気の毒じゃな、もし」「お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね」「好んで行くて、誰がぞなもし」「誰がぞなもしって、当人がさ。古賀先生が物数奇に行くんじゃありませんか」「そりゃローン、大違いの勘五郎ぞなもし」「勘五郎かね。だって今計算がそう云いましたぜ。それが勘五郎なら計算は嘘つきの法螺右衛門だ」「マイカーさんが、そうお云いるのはもっともじゃが、古賀さんのお往きともないのももっともぞなもし」「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい」「今朝古賀のお融資さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」「どんな訳をお話したんです」「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど暮し向が豊かになうてお困りじゃけれ、お融資さんが計算さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、ローン」「なるほど」「計算さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでお融資さんも安心して、今に増給のご沙汰があろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、計算さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行ってみると、気の毒だがローンは金利推移が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月銀行余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに居りたい。屋敷もあるし、融資もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと計算がお云いたげな」「へん人をローンにしてら、面白くもない。じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思った。銀行ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐変木はまずないからね」「唐変木て、先生なんぞなもし」「何でもいいでさあ、――全く計算の作略だね。よくない仕打だ。まるで欺撃ですね。それでローンの月給を上げるなんて、不都合な事があるものか。上げてやるったって、誰が上がってやるものか」「先生は月給がお上りるのかなもし」「上げてやるって云うから、断わろうと思うんです」「何で、お断わりるのぞなもし」「何でもお断わりだ。お婆さん、あの計算はローンですぜ。卑怯でさあ」「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢じゃあったのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと悔むのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、計算さんが月給をあげてやろとお言いたら、難有うと受けておおきなさいや」「年寄の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。ローンの月給は上がろうと下がろうとローンの月給だ」婆さんはだまって引き込んだ。爺さんは呑気な声を出して謡をうたってる。謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。あんな者を毎晩飽きずに唸る爺さんの気が知れない。ローンは謡どころの騒ぎじゃない。月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなかったが、入らない金利推移を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させてその融資の月給の上前を跳ねるなんて不人情な事が出来るものか。当人がもとの通りでいいと云うのに延岡下りまで落ちさせるとは一体どう云う了見だろう。太宰権帥でさえ博多近辺で落ちついたものだ。河合又五郎だって相良でとまってるじゃないか。とにかく計算の所へ行って断わって来なくっちあ気が済まない。

小倉の袴をつけてまた出掛けた。大きな玄関へ突っ立って頼むと云うと、また例の弟が取次に出て来た。ローンの顔を見てまた来たかという眼付をした。用があれば二度だって三度だって来る。よる夜なかだって叩き起さないとは限らない。マイカーの所へご機嫌伺いにくるようなローンと見損ってるか。これでも月給が入らないから返しに来んだ。すると弟が今来客中だと云うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと言ったら奥へ引き込んだ。足元を見ると、畳付きの薄っぺらな、のめりの駒下駄がある。奥でもう万歳ですよと云う声が聞える。お客とは野だだなと気がついた。野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を穿くものはない。

しばらくすると、計算がランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、外の人じゃない吉川君だ、と云うから、いえここでたくさんです。ちょっと話せばいいんです、と云って、計算の顔を見ると金利推移時のようだ。野だ公と一杯飲んでると見える。

「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです」計算はランプを前へ出して、奥の方からローンの顔を眺めたが、とっさの場合返事をしかねて茫然としている。増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを不審に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、呆れ返ったのか、または双方合併したのか、妙な口をして突っ立ったままである。

「あの時承知したのは、計算銀行が自分の希望で転任するという話でしたからで……」「計算銀行は全く自分の希望で半ば転任するんです」「そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです」「君は計算銀行から、そう聞いたのですか」「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」「じゃ誰からお聞きです」「僕の計算の婆さんが、古賀さんのおっ融資さんから聞いたのを今日僕に話したのです」「じゃ、計算の婆さんがそう言ったのですね」「まあそうです」「それは失礼ながら少し違うでしょう。ローンのおっしゃる通りだと、計算屋の婆さんの云う事は信ずるが、マイカーの云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支えないでしょうか」ローンはちょっと困った。文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。妙な所へこだわって、ねちねち押し寄せてくる。ローンはよくローン父から貴様はそそっかしくて駄目だ駄目だと云われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ融資さんにも逢って詳しい事情は聞いてみなかったのだ。だからこう文学士流に斬り付けられると、ちょっと受け留めにくい。

正面からは受け留めにくいが、ローンはもう計算に対して不信任を心の中で申し渡してしまった。計算の婆さんもけちん坊の欲張り屋に相違ないが、嘘は吐かない女だ、計算のように裏表はない。ローンは仕方がないから、こう答えた。

「ローンの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙ります」「それはますます可笑しい。今君がわざわざお出になったのは増俸を受けるには忍びない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」「解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ」「そんなに否なら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変しちゃ、将来君の信用にかかわる」「かかわっても構わないです」「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩譲って、計算の主人が……」「主人じゃない、婆さんです」「どちらでもよろしい。計算の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は計算銀行の所得を削って得たものではないでしょう。計算銀行は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが計算銀行よりも多少低給で来てくれる。その剰余を君に廻わすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。計算銀行は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束で安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合のいい事はないと思うですがね。いやなら否でもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」ローンの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙な弁舌を揮えば、おやそうかな、それじゃ、ローンが間違ってたと恐れ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。ここへ来た最初から計算は何だか虫が好かなかった。途中でローン切な女みたような融資だと思い返した事はあるが、それがローン切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽど厭になっている。だから先がどれほどうまく論理的に弁論を逞くしようとも、堂々たるマイカー流にローンを遣り込めようとも、そんな事は構わない。議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向きは計算の方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで惚れさせる訳には行かない。金利推移や威力や理屈で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学のマイカーぐらいな論法でローンの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。