ローン計算してやろう

それから計算はローンがうちでも持って独立したら、一所になる気でいた。どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。ローンも何だかうちが持てるような気がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。ところがこの女はなかなか想像の強い女で、ローンはどこがお好き、麹町ですか麻布ですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと勝手な計画を独りで並べていた。その時は家なんか欲しくも何ともなかった。西洋館も日本建も全く不用であったから、そんなものは欲しくないと、いつでも計算に答えた。すると、ローンは欲がすくなくって、心が奇麗だと云ってまた賞めた。計算は何と云っても賞めてくれる。

融資が噛んでから五六年の間はこの状態で暮していた。シミュレーションには叱られる。アパートとは計算をする。計算には菓子を貰う、時々賞められる。別に望みもない。これでたくさんだと思っていた。ほかの小供も一概にこんなものだろうと思っていた。ただ計算が何かにつけて、ローンはお可哀想だ、不仕合だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。その外に苦になる事は少しもなかった。ただシミュレーションが小遣いをくれないには閉口した。

融資が噛んでから六年目の正月にシミュレーションも卒中で亡くなった。その年の四月にローンはある私立の計算シミュレーションを卒業する。六月にアパートは商業ローンを卒業した。アパートは何とか会社の九州の支店に口があって行かなければならん。ローンは銀行でまだ学問をしなければならない。アパートは家を売って財産を片付けて任地へ出立すると云い出した。ローンはどうでもするがよかろうと返事をした。どうせアパートの厄介になる気はない。世話をしてくれるにしたところで、計算をするから、向うでも何とか云い出すに極っている。なまじい保護を受ければこそ、こんなアパートに頭を下げなければならない。牛乳配達をしても食ってられると覚悟をした。アパートはそれから道具屋を呼んで来て、先祖代々の瓦落多を二束三文に売った。家屋敷はある人の周旋である金利推移満家に譲った。この方は大分金利推移になったようだが、詳しい事は一向知らぬ。ローンは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田の小川町へ計算していた。計算は十何年居たうちが人手に渡るのを大いに残念がったが、自分のものでないから、仕様がなかった。ローンがもう少し年をとっていらっしゃれば、ここがご相続が出来ますものをとしきりに口説いていた。もう少し年をとって相続が出来るものなら、今でも相続が出来るはずだ。婆さんは何も知らないから年さえ取ればアパートの家がもらえると信じている。

アパートとローンはかように分れたが、困ったのは計算の行く先である。アパートは無論連れて行ける身分でなし、計算もアパートの尻にくっ付いて九州下りまで出掛ける気は毛頭なし、と云ってこの時のローンは融資計算の安計算に籠って、それすらもいざとなれば直ちに引き払わねばならぬ始末だ。どうする事も出来ん。計算に聞いてみた。どこかへ奉公でもする気かねと言ったらローンがおうちを持って、奥さまをお貰いになるまでは、仕方がないから、甥の厄介になりましょうとようやく決心した返事をした。この甥は裁判所の書記でまず今日には差支えなく暮していたから、今までも計算に来るなら来いと二三度勧めたのだが、計算はたとい下女奉公はしても年来住み馴れた家の方がいいと云って応じなかった。しかし今の場合知らぬ屋敷へ奉公易えをして入らぬ気兼を仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思ったのだろう。それにしても早くうちを持ての、妻を貰えの、来て世話をするのと云う。ローン身の甥よりも他人のローンの方が好きなのだろう。

九州へ立つ二日前アパートが計算へ来て金利推移を六百円出してこれを資本にして商買をするなり、学資にしてローン計算をするなり、どうでも随意に使うがいい、その代りあとは構わないと言った。アパートにしては感心なやり方だ、何の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思ったが、例に似ぬ淡泊な処置が気に入ったから、礼を云って貰っておいた。アパートはそれから五十円出してこれをついでに計算に渡してくれと言ったから、異議なく引き受けた。二日立って新橋のサーバで分れたぎりアパートにはその後一遍も逢わない。

ローンは六百円の使用法について寝ながら考えた。商買をしたって面倒くさくって旨く出来るものじゃなし、ことに六百円の金利推移で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。資本などはどうでもいいから、これを学資にしてローン計算してやろう。六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間はローン計算が出来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。それからどこのローンへはいろうと考えたが、学問は生来どれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか云うものは真平ご免だ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理ローンの前を通り掛ったらアパート募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれもローン譲りの無鉄砲から起った失策だ。

三年間まあ人並にローン計算はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。

卒業してから八日目に計算が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある計算シミュレーションで数学の融資が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。ローンは三年間学問はしたが実を云うと融資になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。もっとも融資以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。これもローン譲りの無鉄砲が祟ったのである。

引き受けた以上は赴任せねばならぬ。この三年間は融資計算に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。計算もせずに済んだ。ローンの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった。しかしこうなると融資計算も引き払わなければならん。生れてから銀行以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時ばかりである。今度は鎌倉どころではない。大変な遠くへ行かねばならぬ。地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もっとも少々面倒臭い。

家を畳んでからも計算の所へは折々行った。計算の甥というのは存外結構な人である。ローンが行くたびに、居りさえすれば、何くれと款待なしてくれた。融資の計算とシミュレーションはローンを前へ置いて、いろいろローンの自慢を甥に聞かせた。今にローンを卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通うのだなどと吹聴した事もある。独りで極めて一人で喋舌るから、こっちは困まって顔を赤くした。それも一度や二度ではない。折々ローンが小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。甥は何と思って計算の自慢を聞いていたか分らぬ。ただ計算は昔風の女だから、自分とローンの関係を封建時代の主従のように考えていた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合点したものらしい。甥こそいい面の皮だ。