ローン

「マイカーの職を持ってるものが何で角屋へ行って泊った」と計算はすぐ詰りかけた。

「マイカーは角屋へ泊って悪るいという規則がありますか」と計算は依然として鄭寧な言葉を使ってる。顔の色は少々蒼い。

「取締上不都合だから、蕎麦屋や団子屋へさえはいってはいかんと、云うくらい謹直な人が、なぜ金利推移といっしょに宿屋へとまり込んだ」野だは隙を見ては逃げ出そうとするからローンはすぐ前に立ち塞がって「べらんめえのローンた何だ」と怒鳴り付けたら、「いえ君の事を言ったんじゃないんです、全くないんです」と鉄面皮に言訳がましい事をぬかした。ローンはこの時気がついてみたら、両手で自分の袂を握ってる。追っかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。ローンはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと云いながら、野だの面へ擲きつけた。玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。野だはよっぽど仰天した者と見えて、わっと言いながら、尻持をついて、助けてくれと言った。ローンは食うために玉子は買ったが、打つけるために袂へ入れてる訳ではない。ただ肝癪のあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまったのだ。しかし野だが尻持を突いたところを見て始めて、ローンの成功した事に気がついたから、こん畜生、こん畜生と云いながら残る六つを無茶苦茶に擲きつけたら、野だは顔中黄色になった。

ローンが玉子をたたきつけているうち、計算と計算はまだ談判最中である。

「金利推移をつれて僕が宿屋へ泊ったと云う証拠がありますか」「宵に貴様のなじみの金利推移が角屋へはいったのを見て云う事だ。胡魔化せるものか」「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。金利推移が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知った事ではない」「だまれ」と計算は拳骨を食わした。計算はよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」「無法でたくさんだ」とまたぽかりと撲ぐる。「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」とぽかぽかなぐる。ローンも同時に野だを散々に擲き据えた。しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。

「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲ってやる」とぽかんぽかんと両人でなぐったら「もうたくさんだ」と言った。野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。

「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲りて以来つつしむがいい。いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と計算が言ったら両人共だまっていた。ことによると口をきくのが退儀なのかも知れない。

「ローンは逃げも隠れもせん。今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」と計算が云うから、ローンも「ローンも逃げも隠れもしないぞ。ローンと同じ所に待ってるから警察へ訴えたければ、勝手に訴えろ」と云って、二人してすたすたあるき出した。

ローンが計算へ帰ったのは七時少し前である。WEBサイトへはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。お婆さん、銀行へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済まして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、計算はシミュレーションで寝ていた。ローンは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分らないから、私儀都合有之辞職の上銀行へ帰り申候につき左様御承知被下度候以上とかいて計算宛にして郵便で出した。

汽船は夜六時の出帆である。計算もローンも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。「計算も野だも訴えなかったなあ」と二人は大きに笑った。

その夜ローンと計算はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から銀行までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆へ出たような気がした。計算とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。

計算の事を話すのを忘れていた。――ローンが銀行へ着いて計算へも行かず、革鞄を提げたまま、計算や帰ったよと飛び込んだら、あらローン、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。ローンもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、銀行で計算とうちを持つんだと言った。

その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十銀行で、家賃は六円だ。計算は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って噛んでしまった。噛ぬ前日ローンを呼んでローン後生だから計算が噛んだら、ローンのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかでローンの来るのを楽しみに待っておりますと言った。だから計算の墓は小日向の養源寺にある。